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![]() 本紙2X6(尺) 木製パネルにビニル樹脂銀メッシュ布を貼り込む 黒・グレーなどの布でアクセントバランスをデザインする。 20年位前の桃華会展(中本桃水先生主宰)でのお仕事です。 銀メッシュと変体仮名との取り合わせが一瞬の眩暈を誘ったかもしれない。 銀銀メッシュな仮名書が立ち上がることを目論んだ。 表具の面白さは、「書」と「書とは異なるもの」とを取り合わせることで化学反応のようなことが生じる。シュールレアリズム宣言で引き合いに出されるロートレアモンの「手術台の上のこうもり傘とミシンとの出会いのように美しい」というフレーズにおける「手術台」はそのまま「表具」という場に置き換えられる。ときとして「あり得ない遭遇」が「表具」という場で起こるとがある。というより、「あり得ない遭遇」の場、実験場・手術台として表具はこれまで機能してきたのではないか。「シュールレアリズム宣言」ならぬ「表具主義宣言」のようなことを思った人が古代に存在したという想定は充分に可能だ。 「手術台の上のこうもり傘とミシンとの出会いのように美しい」。表具はそのような美しい出会いの手術台であり実験場である。なにげに「表具主義宣言」をしてしまったが、珈琲の飲み過ぎかもしれない。 ![]() 行雲流水 書 中室水穂先生(故人) 1998年頃(?)だったでしょうか。 故・中室水穂先生の個展の時にさせて頂いた仕事です。 屏風素材 木製形成にウレタン塗装艶消し ヒンジ ステンレス丸棒 床との接地部 ステンレス材 ウレタン塗装の上から墨で書かれました。 一度目は宮沢賢治の「雨にも負けず」を書かれたのですが、思うように書けなかったので全面を塗り直しました。再度挑戦されたのがこの「行雲流水」でした。とても懐かしい屏風となりました。 機会があればまた作りたい屏風です。 ![]() ゆきやらで山路暮らしつ時鳥いまひとこえの聞かまほしさに 源 公忠(みなもと の きんただ) 拾遺和歌集より 仮名書 吉井恵子(師-中本桃水・桃華会主宰) 素材 木製パネル 染め布(京都の染織家・斉藤洋) 半紙版 源 公忠(みなもと の きんただ、寛平元年(889年)- 天暦2年10月29日(948年12月7日))は、平安時代中期の官人・歌人。光孝天皇の孫。大蔵卿・源国紀[1]の子。官位は従四位下・右大弁。三十六歌仙の一人。滋野井と号す。 『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)は、古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、寛弘三年(1006)頃の成立か。古来、花山院の親撰もしくは院が藤原長能・源道済に撰進させたといわれてきたが、確証はない。先行する二つの勅撰集と違い、和歌所が置かれなかった。藤原公任の撰という『拾遺抄』との命名の相似性を考え、それをベースに編まれたと思われる(両者の先後関係については、古来論争が続いて来たが、近代になって拾遺抄から拾遺集へとの説が固着した)。 春、夏、秋、冬、賀、別、物名、雑(上・下)、神楽歌、恋(五巻)、雑春、雑秋、雑賀、雑恋、哀傷の二十巻、約1350首からなる。雑春・雑恋といった部類を持つ構成はかなり独創的なものである。 「拾遺」の名義は前代の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集める意で、その名の通り、この集では紀貫之(107首)をはじめとする古今歌人が引き続き多数入集する一方、柿本人麿(104首)ら万葉歌人が再評価され、大中臣能宣(59首)・清原元輔(48首)・平兼盛(39首)ら後撰集時代の歌人の作が新たに補われた。また、斎宮女御・藤原道綱母・藤原公任などの当代歌人も登場する。物名部において、卑官の藤原輔相が37首も採られているのも興味深い。 『拾遺集』は当時の歌壇の流れに乗った平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多いが、殊に恋歌はすぐれ、小倉百人一首に8首も採られている。だが、花山院の個人的な好みによって選ばれた和歌が多いようであり、そのためか成立後約二百年もの間、勅撰集としての評価が得られなかった。ちなみに『拾遺集』のよさを述べ、勅撰集として初めてはっきり認めた人物は藤原定家である。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ![]() 花のごとく月の如くにもてなさん 高浜虚子 書 安保京(師・中本桃水先生・桃華会主宰) 素材 木製パネルに染め布(染め・京都の染織家・斉藤洋) 本紙半紙版 高浜虚子 1874〜1959(享年86) この句は昭和12年、虚子73歳のときの作ですが、僕は作者も知らない時は、江戸時代の誰かの俳句だと勝手に思ってました。もてなしの心の有る無しが問われる句だなと、ちょっと怖いですね。 ![]() 「秋日遊び足りて母ら子守ら」 河東碧梧桐 この書は当店のお得意様の屏風に張り込んであります。 30年くらい前お仕事で伺ったとき、この書に遭遇したのでした。 運良くカメラを携えていたので許可を得て撮らせて頂きました。 碧梧桐の名前だけは知っていたのですが現物の書を見るのは初めてのことでした。 おー、こんな面白い書を書く人ががいるのかっ! と、いうのが第一印象だったように思います。 僕は書道はからっきしダメです。小学生の頃、学ぶ姿勢が無く、習字の時も運筆を習った記憶が無いと言い切るような嫌な子どもだった。そんな子どもが表具を営むことになろうとは、トホホです。 でも、この書には感心しました。 「赤い椿白い椿と落ちにけり」 碧梧桐 そう、この句の作者なのでした。 この「赤い椿」の句とこの写真の【母ら子守ら」の書とが一人の碧梧桐に合体され生命を得て動き始めています。 僕たちの国に筆記具が筆しか無かった時代があるわけです。中国から文字を取り入れたことが同時に筆を取り入れたことになった。そこから筆に馴染むことがなすべき重要なテーマとなった。という流れがある。この、筆に馴染むことは文字に馴染むことでもあった。文字を持たないで社会が成り立っていた日本列島の人びとが文字に馴染むようになるにはそれから1000年以上の時間を必要とした。全ての人びとが文字と馴染むにはおよそ1300年以上の時間が必要だった。そう考えると、日本人と筆との付き合いは長いんですね。 パソコンとかスマホが筆記具や伝達手段・方法になった時代を迎えていますが、筆の世界はどうなってゆくのでしょうか。このことは如何に考えたらいいのだろう。 筆に馴染むことのなかった僕が何か言うのはおこがましいのですが、筆に馴染むにはやはり時間がかかるわけですね。良い字を書こうとするのではなく丁寧な字を書こうとすることが基本だと思うのです(あたしはそのどちらも欠けていたのですが)。よくわからないままに書いてますが、日本人は書を通してしか伝わらないものがある、だから「書道」は必要だ、ということは言えるのでしょうか? 書道でしか伝わらないものはもちろんあると思いますが、それがわからないと日本人とは言えないということになるのかどうか。 「書道」は筆に馴染むには時間がかかる、ということを知る。そのことを通じて人間を知る。そういう学びの一つであるとは言えると思います。面白い字とか良い字とかは筆に馴染むことの効果だと思うのです。 ![]() 仮名書 中本桃水先生(尾道市在住・桃華会主宰 書道教室) 「うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがきふるさと」 額素材 アルミアルマイト仕上げ(マット部) 1400X600㎜ 作品浮かし台 作品上下に染め布部(京都の染織家・斉藤洋染め) 1914年(大正3年)の尋常小学唱歌の第六学年用で発表された。当時は尋常小学唱歌の性格上、作詞作曲者が明かされていなかったが、作詞者は高野辰之、作曲者は岡野貞一であるとされている。ただし、岡野作曲説は学問的には疑わしい(岡野貞一参照)。 同じ作詞作曲者の手による『朧月夜』、『春の小川』等と共に、文部省唱歌を代表する曲として今日も歌われている。 子供の頃の野山の風景を遠い地から懐かしむという内容で、生まれ故郷から離れて学問や勤労に励む人の心情を歌っている。当該歌詞にあっては、「かの山」は高野の生家のあった長野県下水内郡豊田村(現中野市永江)の「大持山」、「かの川」は「斑川」であるとする説が一般的である。 北朝鮮による日本人拉致問題の支援者団体(救う会など)が開催する集会では、この歌を日本人拉致被害者の早期帰国を願って参加者全員で歌唱することが通例となっている。 高野の出身地である長野県中野市と、岡野の出身地鳥取県鳥取市に歌碑がある。 歌詞 [編集] 兎追いし 彼の山 小鮒釣りし 彼の川 夢は今も 巡りて 忘れ難き故郷 如何にいます 父母 恙無しや 友がき 雨に風に つけても 思ひ出づる 故郷 志を 果たして いつの日にか 帰らん 山は靑き 故郷 水は淸き 故郷 ウィキペディアより
隣保班の方々と溝掃除を済ませました。
本日は「表具日記」はお休みです。 またのおこしをお待ち致しております。 店主敬白 今日は岡田斗司夫の「フリックス」の中の「同志社大学での講演」を聴いたり、その文章化されたものを読んで凄いなあと感嘆しながら頷いたりしながら、日曜の後半を過ごしています。岡田斗司夫の「評価経済」は一度は知っておいたほうがいいと思います。「贈与経済」と同じようなことだと思いますが、具体的に語っているところが凄いです。「漫画夜話」でしか知らなかったけど、こんなこと考えていたんだ。オススメです!!。 ![]() 「お前の目は節穴か!」って、なんと懐かしい響きだろう。 「赤い椿白い椿と落ちにけり」 当分はこの句を味わってみます。 瞑目! ![]() 赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐 2000年(平成12年)頃の桃華会展・(中本桃水先生主宰)にて書・佐藤東亜子さん この頃の写真は相変わらず写りが悪いこと甚だしい。(腕とカメラ接触不良) 額素材 アクリルガラスマット仕上げ コーナーステンレス三角板 アルミ細枠浮かし台 赤い椿白い椿と落ちにけり 斑鳩町立斑鳩東小学校 松本隆行さんが自らお勤めの小学校の授業でこの句をとりあげていらっしゃいます。とても参考になりましたので一部をご紹介させて頂きます。 【この句が,新聞「日本」明治29年3月11日に載る。が,このときの句形は「白い椿赤い椿と落ちにけり」であった。⑨『河東碧梧桐の基礎的研究』によれば,「新聞「日本」の俳句欄で赤と白の順序が入れ替わったのはおそらく子規の添削であろう。」とのことである。 碧梧桐は,この句を選集『新俳句』(明治31年3月)に収録する際,元の句形「赤い椿白い椿…」に戻している。 この句の解釈には,大きく分けて次の2とおりがある。 A 落ちている椿の花を詠んだ。(正岡子規・平井照敏・高浜虚子・中村俊定・大野林火・大岡信ら。) B 落ちつつある椿の花を詠んだ。(山口青邨・寺田寅彦・小室善弘・栗田靖ら。) 私は,栗田氏の解説に納得した。 まず,問題となるのは,座五の「落ちにけり」であろう。 虚子の有名な句に 桐一葉日当りながら落ちにけり がある。この「落ちにけり」は「落ちる」という動作が今完了したことを意味しており,「落ち敷いているさま」というような静止の状態を詠んだものではない。広い大きな桐の葉が枝を離れてゆったり落ちるさまを写生したもので,「ながら」という時間の経過をを表す語を伴って「落ちる状態」が緩やかに完了したことを示しているのである。 つまり,椿の句の「落ちにけり」も「落ち敷いているさま」というような静止の状態を詠んだものではなく,赤い椿が落ちてはっとする間もなく白い椿が落ちたことに感動しているのである。つまり,作者は赤い椿の花がぽたりと落ちたことに対し,アッと驚き,その驚きが消えない間に今度は白い椿がぽたりと落ちたのである。椿の生命を極めて即物的,印象鮮明に捉えたところにこの句の生命がある。子規以来諸家が説くように「落ちている状態」に対する感動ならば「落ちゐたり」という表現がとられるべきである。】 昨日の表具日記で書いた「赤い椿白い椿と落ちにけり」の感想の部分を削除いたしました。あまりにお粗末だと気付きましたので。瞑目。
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尾道・表具 表具処 軸源 (店主 津口知幸)
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